香港の歴史

わずか数千人だったは人口は
150年間の英国植民地時代に爆発的に増加
先史時代から現在までの香港の歴史を紐解いてみよう。

■ 先史時代から英国統治まで
考古学調査によると、今から6,000年前の新石器時代、すでに香港には人間の営みがあったことが確認されており、旧石器人たちは主に海岸線一帯で漁労を営んでいたことが分かっている。中国初の統一王朝である秦(紀元前221年~同206年)が誕生するまで、この地域には南方系の南越族と呼ばれる人らが暮らしていた。しかし、秦から漢(紀元前202年~紀元後220年)になると、中原(現在の華中)から漢族が陸伝いに移動し、その先進的な文化や技術が伝来してきた。隋・唐(581年~907年)から宋(960年~1279年)にかけて、香港を含む珠江デルタ一帯への移民や開拓は進んでいった。
宋代の記述によれば、当時、新界東北部にある吐露湾では蛋家(タンカ)と呼ばれる水上生活者の先住民が真珠を採取しており、彼らと交じり合うかのように「五大氏族」と呼ばれる漢民族が移り住み、現在に至っても新界の大地主としてその歴史を受け継いでいる。明から清(1368年~1912年)にかけて香港の沿海には海賊が出没したため、清は一時、海岸線に住む人々に内陸への強制移住を命じたが、これが解かれると多くの移民が押し寄せそれまで以上に人口が増加した。英国統治の直前、香港で最も栄えていたのは、漁港と内陸物資の集散港であった香港仔(アバディーン)や赤柱(スタンレー)などで、香港島全体では5千人程度が住んでいたと見られている。

■ アヘン戦争で英植民地に
香港が初めて世界史の表舞台に登場するのは1842年のこと。清が英国と戦った「アヘン戦争」(1840年~1842年)に敗れ、42年に締結した南京条約で、英国は香港島を永久割譲した。実は、これを1年さかのぼる1841年、英国はすでに香港島への上陸を果たしている。同年には当時「アヘン商人」と呼ばれていた英ジャーディン・マセソン社も進出、銅鑼湾(コーズウェイベイ)に広大な倉庫群を所有し、早くも「貿易港」としての役割を整え始めた。しかし、当時の香港は相変わらず沿海に海賊が出没し、アヘンや銀貨を積む英国の貨物船が頻繁に狙われていた。
また、中国系住民らは植民地となった後も統治する英国側との間で紛争を繰り返し、英国側は領土の守りを固めるために、より多くの領土を手中に収めようと画策していた。1856年、香港籍の貨物船アロー号が密輸容疑で清にだ捕された「アロー号事件」をきっかけに、清との間に起こった「第2次アヘン戦争」(1857年~1858年)を経て、英国は九龍半島とその西に浮かぶ昂船洲(ストーンカッター島)を清から租借、さらに1860年の北京条約で永久割譲権を獲得。また、1898年には現在の新界および離島地区が99年間の期限付きで租借されることになった。
191904年には香港島を東西に走るトラムも開通し、1910年には九龍と広東省の境にある羅湖を結ぶ九広鉄路も開通した。ビクトリアハーバーには20世紀初め、すでに年間1万1000隻もの船舶が行き来し、貿易は加速的に発展していった。このころまでには、植民地香港の議会にあたる立法評議会にも中国系の議員が選出され、香港政庁内で中国語の学習が奨励されるなど、中国系香港人にも多くの権利が認められ、地元文化と英国文化との融和が進んだ。

■ 香港と日本の関わり
明治時代から香港は、日本の米や水産物などを輸入するようになった。これに伴い、貿易等の仕事のために香港に移り住む日本人も増加した。1901年は500人程度だったが、一番ピークの1931年には、香港在住の日本人数は2,000人強まで増えたと記録されている。日清戦争、日露戦争で日本が立て続けに勝利したことから、英国人の日本人への見かたが変わり、香港での日本人の地位は高いものだった。
当時、領事館や商社に勤める日本人の多くは、英国人が多く駐在するビクトリアピークに住んでいた。一方で、船乗り等の貧しい日本人は灣仔周辺で暮らしていた。その後、日中関係の悪化に伴い、1931年をさかいに日本人数も減少の一途をたどり、第二次世界大戦が始まった1941年にはその数400人まで落ち込んだ。

■日本による統治
191941年12月、日本による宣戦布告から太平洋戦争が勃発すると、イギリス軍の要衝であった香港も戦場となった。1941年12月8日、広州方面から南下してきた日本軍が香港に侵入し、供給の要である啓徳空港を爆撃。九龍半島を制圧後は香港島に上陸して地上戦となった。真珠湾攻撃からわずか2週間余り経過した後、同年12月25日のクリスマスに英国軍が降伏。英国軍が降伏したこの日は通称、「ブラック・クリスマス」としてイギリス人に語り継がれている。
香港が日本軍占領地となっていた間、日本軍は香港ドルを廃止して、軍用手表(軍票)を発行するなど経済を混乱させた。軍票の発行によりインフレーションが誘発されると食料恐慌や燃料恐慌が相次いで起こり、町の荒廃により多くの住民が香港から逃れていった。また同時に、これまでのイギリス植民地政府による影響を払拭させようと画策した日本軍は皇民化政策や地名の日本名化を促進させた。日本の太平洋戦争における敗戦が決まるまでの占領されていた3年8ヶ月間を、香港の人は「三年零八個月」、「暗黒の3年8ヶ月」と呼ぶ。

■ 戦後から返還前まで
191945年、日本の無条件降伏とともに香港は再び英国の手中に戻った。中国国内では1948年ごろから国民党と共産党の内戦が激化。多くの難民が境界線を越えて押し寄せ、中国人民解放軍が国境を侵して香港に進軍する危険性も叫ばれたが、中国共産党は香港を現状維持することを決め、解放軍は深圳までで留まり、1949年、境界線の向こうで中華人民共和国が成立しても香港の主権に変わりはなかった。植民地領土は保たれたものの、政庁を悩ませたのはおびただしい数の難民だった。特に中国が62年に「大躍進」政策に失敗すると、餓死をまぬがれようとする難民がさらに押し寄せ、その後の文化大革命にいたるまで、約60万人が香港にやって来た。
一方で、上海などから内戦を逃れてきた財閥などの一部が香港経済に貢献し始める。まず1950 年代に入ると、香港は軽工業の中心地として発展。この時期、プラスチック製の造花「ホンコンフラワー」で一躍巨万の富を得たのは、現在も香港の最有力財閥として君臨する李嘉誠氏。広東省沿岸北部の潮州からの移民として事業を起こした彼は「白手起家」(裸一貫から事業を起こす意)の象徴として尊敬されている。1960年代に入ると、公共団地の建設など生活インフラの充実や民生の改善が行われ、ようやく市民が「豊かさ」に目を向けられる時代になった。70年代には初等教育の無料化や生活補助金の支給が開始され、75年には地下鉄(MTR)が開通し、沿線の都市化も進行した。

■ 返還から現在まで
市民に豊かさが増し、民間の住宅販売が活性化するにつながってきたのが香港の将来に対する不安だった。香港島と九龍は永久割譲されたものの、新界の租借期限は99年間。1970年代後半になると、新界の租借期限である1997年が過ぎても購入した住宅や金融資産を自分のものとして保てるのかが心配されるようになった。こうした市民の不安を取り除き、国際都市として発展する香港の主権存続を勝ち取るため、当時の英国・サッチャー首相は1982年、中国・鄧小平氏との香港返還交渉を開始し、中国に主権を返還しても、統治権は英国に残すよう働きかけた。しかし中国側は、租借期限の迫った新界のみならず、永久割譲された香港と九龍も当時の清との間に結ばれた不平等条約に基づくものとして全面的な返還を主張。英国側は当初目論んでいた新界の租借延長を放棄し、香港島と九龍の主権だけとするなど次第にトーンダウンし、1984年に中英共同宣言が調印され、1997年7月1日をもって香港の全領土が中国に返還されることが決定した。
香港返還を控えた1997年6月末、英・チャールズ皇太子と中国の江沢民・国家主席ら両国の代表が香港に集結。155年の植民地時代に幕を下ろす返還式月1日午前0時の時報とともに、「中華人民共和国典がおごそかに行われ、7香港特別行政区」が誕生した。返還から20年を経た現在まで、「基本法」で「50年不変」と定められた香港の政治・経済体制のもと、国際金融センター、アジアの貿易中継拠点として外資企業が中国やアジアでのビジネスを展開する拠点となり、また中国資本にとっては資金調達の場となるなど経済的に重要な役割を担っている。
202002年に中国が世界貿易機関(WTO)への加盟を果たし、その翌年には中国政府と香港特区政府間で経済・貿易緊密化協定(CEPA)が結ばれ、2004年から一部香港製品に対する関税が廃止された。2003年1月にこれまで夜には閉鎖された深圳経済特別区の通関が一部24時間開放。2007年には深圳と香港を結ぶ幹線道路の深港西部通道と九広鉄路(KCR)落馬洲線が開通した。2003年夏から中国人の香港への個人旅行が部分的に開放されるなど、両地の関係はますます緊密になっている。2004年に香港での人民元預金が可能となり、2007年には人民元建て債券が香港で発行され、中国政府が中国内の個人投資家に香港株式市場への投資を認めるなど金融市場での一体化も急速に進んだ。2005年の人民元切り上げ後、香港ドルと人民元の為替レートが逆転。人民元に対して香港ドル安の状況が続いている。
202017年7月1日、香港は中国へ返還されてから20年の節目を迎えた。習近平国家主席が就任後初めて香港を訪問し、同日に行われた演説にて「香港の『一国二制度』は世界が認める成功を収めた」と強調した。

2018年は9月23日に高速鉄道「広深港高速鉄道」が開通し、香港―北京間を約10時間で結び、14分で福田駅、23分で深圳北駅、48分で広州南駅に到着することが可能となった。また、10月24日には香港・マカオ・珠海を結ぶ全長55㎞の世界最長クラスとなる海上橋「港珠澳(こうじゅうおう)大橋」が開通。マカオから車の移動で3時間半かかっていたが、30分に短縮された。 2019年は中国建国70周年や、マカオ初となる鉄道路線「澳門軽軌鉄路(マカオけいきてつろ)」の運航開始も予定されており、さらに中国との関係が強化されていくことが予想される。
ま 2018年は9月23日に高速鉄道「広深港高速鉄
道」が開通し、香港―北京間を約10時間で結び、
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駅に到着することが可能となった。また、10月24
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間半かかっていたが、30分に短縮された。
2019年は中国建国70周年や、マカオ初となる
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ろ)」の運航開始も予定されており、さらに中国と
の関係が強化されていくことが予想される。

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